泉秀樹の歴史を歩く 島義勇はなぜ札幌を去った?札幌本府建設とその後を時系列解説|11/1 5:30
11月1日(日)午前5時30分からJ:COM BSで放送される「泉秀樹の歴史を歩く」は、「札幌をつくった男 島義勇の生涯」がテーマです。J:COM公式番組表では、明治初期の石狩で原生林を切り開き、札幌の町がどのように誕生したのかをたどる内容と案内されています。
今回の中心人物・島義勇は、札幌の完成を最後まで見届けた人物ではありません。むしろ注目したいのは、札幌本府建設の最初の責任者として大きな構想を描きながら、着手から短期間で札幌を離れたという点です。
何を実行し、なぜ途中で去ることになったのかを知ると、番組の見え方が大きく変わります。
11月1日の放送日時と番組内容
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 放送日 | 2026年11月1日(日) |
| 放送時間 | 5:30〜6:30 |
| 放送局 | J:COM BS |
| 番組名 | 泉秀樹の歴史を歩く |
| 今回のテーマ | 札幌をつくった男 島義勇の生涯 |
| 出演 | 泉秀樹 |
J:COM公式番組表によると、今回の放送は「明治のはじめ、未開の地であった北海道の石狩の吹雪と闘いながら原生林を伐り開いて築かれた札幌の町」が、誰によってどのように開発されたのかを追う内容です。
作家の泉秀樹さんが歴史の現場を訪ね、人と事件を独自の視点で読み解く番組です。同番組の別回については、「桜田門外ノ変と女たち」で井伊直弼襲撃の背景を整理した記事もあります。
島義勇は何をした人物?札幌本府建設までを時系列で整理
島義勇の生涯をたどると、札幌の街づくりは突然任された仕事ではなく、若い頃からの学び、蝦夷地調査、新政府での経験が積み重なった末の任務だったことが分かります。
1822年に佐賀で生まれ、弘道館で学ぶ
北海道赤れんが庁舎の先人アーカイブでは、島義勇は1822年に肥前国佐賀城下で生まれた佐賀藩士と紹介されています。佐賀の藩校・弘道館で学び、その後は藩主・鍋島直正の側役を務めました。
佐賀県観光公式サイトの島義勇紹介では、若い頃に諸国遊学を経験し、幕末の思想家や志士と交流したことも紹介されています。後に未知の土地で大規模な都市構想を描く人物だけに、各地を見て歩いた経験は見逃せません。
1850年代に蝦夷地を調査し「入北記」を残す
島は札幌建設の十数年前、すでに北海道を歩いていました。北海道赤れんが庁舎の資料では、1857年に藩主の命を受けて蝦夷地と樺太を調査し、その成果を「入北記」にまとめたとされています。
つまり、1869年に開拓判官として北海道へ向かった時点で、島にとって北の大地は完全な未知ではありませんでした。気候や地形の厳しさを知ったうえで、政府の拠点となる新しい都市をつくろうとしたことになります。
1869年、開拓判官として札幌本府建設を任される
明治政府が開拓使を置いた1869年、島は開拓判官に任命されます。北海道赤れんが庁舎は、島を「札幌本府建設の最初の責任者」と位置づけています。
札幌市の札幌市のあらましでも、明治2年に開拓使が設置され、判官・島義勇が円山の丘から東方を見渡して街づくりの構想を練ったと伝えられています。
ここで重要なのは、単に家を何軒か建てる仕事ではなかったことです。北海道の政治・行政の中心となる「本府」をどこに置き、道路や役所、町をどう配置するかという、都市全体の骨格を決める仕事でした。
札幌はどのようにつくられた?島義勇の構想と証拠
現在の札幌は碁盤の目状の道路で知られていますが、草創期の構想を示す資料が残っています。番組の「誰がどのように開発したのか」という問いに対し、島義勇が最初の都市計画を具体化したことを示す公的資料があります。
明治3年札幌地図に島義勇の建設当時が残る
札幌市図書館の「草創期の札幌」には、1870年の「明治3年札幌地図」が掲載され、開拓判官・島義勇による札幌中心部建設当時を描いたものと説明されています。
同資料では、現在の創成橋や大通西1丁目付近に相当する場所も示されています。後世の伝説だけではなく、当時の街の形を伝える地図が残っているため、島が札幌本府建設の初期段階に深く関わったことを具体的に確認できます。
大通につながる大路を含む都市構想
公益財団法人札幌市公園緑化協会の大通公園史では、島が残した「石狩国本府指図」に、本陣や役所、官舎、町屋とともに大きな道路を配置した構想が紹介されています。その大路が後の大通につながるとされています。
ここから見えてくるのは、島が目先の開拓だけでなく、将来の行政都市として札幌を設計しようとしていたことです。厳冬期の原野で始まった計画が、現在の札幌中心部につながる骨格を持っていた点が、今回の最大の見どころになりそうです。
島義勇はなぜ札幌を去った?短期間で離任した背景
島義勇の物語で最も気になるのが、これほど大きな構想を持ちながら、なぜ札幌本府建設の途中で現場を離れたのかという点です。
結論から言うと、公的資料からは、厳しい現地事情と費用問題が重なり、開拓方針をめぐって上層部との調整が難しくなったことが大きな背景として見えてきます。
極寒の現場で資材と食料の確保に苦しむ
札幌市手稲区の郷土史資料では、島は銭函に開拓仮役所を置き、札幌との間を往復しながら本府建設を進めたとされています。しかし、冬の北海道での工事は厳しく、輸送されるはずの米や木材を載せた船が難破したことも記されています。
現在の都市からは想像しにくいものの、当時は道路も物資供給も十分ではありません。人員を動かし、住居を用意し、資材を集めながら都市を一から建設するには莫大な費用が必要でした。
予算をめぐる対立と東京召還
同じ札幌市資料では、島が開拓予算を短期間で使い、増額を求めたものの認められず、その後に職を解かれて東京へ戻ることになった経緯が紹介されています。
北海道赤れんが庁舎の先人アーカイブも、1870年2月に志半ばで札幌を離れたと説明しています。細かな評価には資料ごとの差がありますが、少なくとも「計画を完成させて任務終了」という形ではなかったことは共通しています。
そのため、「島義勇が札幌をつくった」という言葉は、一人で現在の札幌を完成させたという意味ではありません。より正確には、札幌を北海道の本府として築く最初の構想と建設に責任者として着手し、その後の街づくりに大きな影響を残した人物と捉えるのが分かりやすいです。
札幌を去った後の島義勇はどうなった?
札幌を離れたことが島の人生の終わりではありません。北海道赤れんが庁舎や佐賀県の資料によると、その後は大学少監、秋田県権令、明治天皇の侍従などを歴任しました。
そして1874年、佐賀の乱に関わり、江藤新平らとともに処刑されます。札幌建設からわずか数年後のことでした。
札幌の都市計画と佐賀の乱はどうつながる?
直接の因果関係があるわけではありません。ただ、島の人生を通して見ると、新政府の中で大きな仕事を任されながら、政策や現場の現実との摩擦を抱えた人物像が浮かびます。
札幌では壮大な本府構想を進めながら途中で離任し、その後は政府官僚として職を移り、最後は佐賀の乱で政府軍と戦う側に回りました。番組が「島義勇の生涯」と題している以上、札幌の成功談だけでなく、理想と現実の間で揺れた後半生も重要なポイントです。
「札幌をつくった男」という呼び方は正しい?
島義勇は現在も札幌で顕彰されています。札幌市議会の資料では、札幌市役所本庁舎1階ロビーに島の銅像が置かれ、北海道・札幌の都市建設に着手した功績がたたえられていると紹介されています。
一方、札幌の街づくりは島の離任後も多くの人々によって続けられました。そのため、「札幌をつくった男」は島の役割を象徴的に表した言葉と考えるのが適切です。
番組を見る際は、「完成させたのは誰か」という一人の英雄物語に絞るより、島が最初にどんな構想を示し、その計画が後の札幌へどう受け継がれたのかに注目すると、歴史の流れをつかみやすくなります。
番組を見る前に押さえたい3つのポイント
今回の放送で押さえておきたいのは、第一に、島義勇が札幌赴任前から蝦夷地を調査していたことです。第二に、開拓判官として札幌本府の建設に責任者として着手したことです。
そして第三に、壮大な構想を描きながら短期間で離任し、その後も波乱の人生を歩んだことです。
とくに「なぜ札幌を去ったのか」は、単純な失敗や失脚だけで片づけると実像を見誤ります。厳しい自然、物資不足、大規模工事に必要な予算、開拓使内部の判断など、複数の条件が重なった出来事として見る必要があります。
放送前の公式案内では、番組内で訪れる具体的な場所や、泉秀樹さんがどの資料を使って検証するかまでは公表されていません。公的資料で確認できる時系列を頭に入れておくと、現地映像や解説がどの場面を示しているのか理解しやすくなります。
参考にした情報
- J:COM公式番組表「泉秀樹の歴史を歩く」
- 北海道赤れんが庁舎 展示ガイド「島 義勇」
- 札幌市「札幌市のあらまし」
- 札幌市図書館「草創期の札幌」
- 札幌市手稲区 郷土史資料
- 佐賀県観光公式サイト「あそぼーさが」島義勇
よくある質問
島義勇は札幌で何をした人ですか?
1869年に開拓判官となり、札幌本府建設の最初の責任者として都市の構想と建設に着手した人物です。現在の札幌中心部につながる街づくりの基礎に大きな影響を残しました。
島義勇はなぜ札幌を離れたのですか?
厳冬下の工事や物資不足に加え、大規模な本府建設に必要な予算をめぐる問題があり、1870年2月に札幌を離れました。公的資料では、増額要求が認められず職を解かれた経緯も紹介されています。
島義勇は札幌を離れた後どうなりましたか?
大学少監、秋田県権令、明治天皇の侍従などを務めた後、1874年の佐賀の乱に関わり、江藤新平らとともに処刑されました。
まとめ
11月1日放送の「泉秀樹の歴史を歩く」は、島義勇が札幌本府建設にどう関わり、なぜ途中で札幌を去ったのかを考えるうえで興味深い回です。
島は蝦夷地調査の経験を持ち、1869年に開拓判官として札幌の都市建設に着手しました。現存する地図や札幌市の資料からも、初期の都市構想に深く関わったことが確認できます。
一方で、厳しい自然条件や物資、予算の問題の中で1870年には札幌を離れました。
「札幌をつくった男」という言葉の背景には、完成した都市の姿だけでなく、原野に新しい本府を築こうとした最初の構想と、志半ばで現場を離れた島義勇の波乱の人生があります。番組では、その理想と現実の間にどんな歴史があったのかが大きな見どころになりそうです。

