英雄たちの選択「日章丸事件」出光佐三はなぜ英国の海上封鎖に挑んだ?1953年の極秘航海と訴訟の真相【11月4日】|11/4 8:30
2026年11月4日(水)8時30分から、NHK BSP4Kで「英雄たちの選択 ホルムズ海峡波高し!実録『日章丸事件』」が再放送されます。取り上げられるのは、1953年、出光興産のタンカー「日章丸」がイランから石油を直接輸入した出来事です。
出光佐三が選んだのは、英国や欧米の石油メジャーが強い影響力を持つ状況で、イランとの直接取引に踏み切る道でした。1953年3月23日に神戸港を出た日章丸は、英国海軍の包囲網をかわして石油を積み、5月9日に川崎港へ帰港します。
その後は積荷の所有権をめぐる訴訟にも発展しました。
前回(10月29日放送)の内容と11月4日の再放送
国際大学の告知によると、このテーマは2026年10月29日(木)20時からNHK BSP4Kで放送され、11月4日(水)8時30分から同じくBSP4Kで再放送されます。11月4日の放送は、10月29日の本放送と同じ「ホルムズ海峡波高し!実録『日章丸事件』」を扱う回です。
番組の軸は、出光佐三が英国の海上封鎖を突破してイランから石油を輸入した日章丸事件です。以下では、放送テーマに沿って、当時の国際情勢と出光佐三の判断、航海後の訴訟を時系列で整理します。
英雄たちの選択「日章丸事件」の放送日時と出演者
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 放送日 | 2026年11月4日(水) |
| 放送時間 | 8:30~9:29 |
| 放送局 | NHK BSP4K |
| 番組名 | 英雄たちの選択 |
| テーマ | ホルムズ海峡波高し!実録「日章丸事件」 |
| 司会 | 磯田道史、浅田春奈 |
| 出演 | 田中浩一郎、真山仁 |
| 語り | 松重豊 |
国際大学の告知によると、この回は10月29日にNHK BSP4Kで放送された番組の再放送で、11月4日(水)8時30分からもBSP4Kで放送されます。出演者として、慶應義塾大学教授の田中浩一郎、作家の真山仁、司会の磯田道史と浅田春奈、語りの松重豊が案内されています。
番組では、出光興産の創業者・出光佐三が日章丸をイランへ送り、英国による海上封鎖を突破して石油を輸入した歴史的な出来事を扱います。単なる一企業の大胆な商取引ではなく、石油をめぐる国際政治と、資源を海外に依存する日本のエネルギー事情が重なった事件です。
日章丸事件とは?なぜ出光佐三はイランと直接取引したのか
日章丸事件とは、1953年に出光興産がタンカー「日章丸」をイランへ派遣し、英国資本の石油会社が支配的な立場にあった市場を通さず、イランから石油を直接輸入したことをきっかけに起きた一連の出来事です。石油を積んだ船が日本へ戻ったあと、積荷の所有権をめぐって英国系企業との法廷闘争にも発展しました。
背景にあったのは、イランの石油国有化です。イランでは長く、アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)が石油産業を支配していました。
石油資源から得られる利益の配分や、外国企業が持つ利権への不満が強まり、国民戦線の指導者モハンマド・モサッデグが首相に就任した1951年、石油国有化が進められます。
外務省外交史料館の年表では、1951年4月29日にモサッデグが首相に就任し、同年5月2日にアングロ・イラニアン石油会社の国有化が記録されています。国有化はイランが自国の資源を自ら管理するための政策でしたが、英国側はこれを受け入れず、石油の販売をめぐる対立が激しくなりました。
J-STAGEに掲載された研究論文によると、英国政府はペルシャ湾に軍隊を派遣するなど、イラン産石油の輸出を事実上妨げる措置をとりました。石油を買う側にも拿捕や法的紛争のリスクがあり、イランは国有化した石油を売る相手を見つけにくい状況に置かれていました。
一方、戦後の日本では主要なエネルギー源が石炭から石油へ移りつつありました。石油の安定確保は経済復興と産業発展に直結する問題です。
出光佐三は、メジャーを経由する既存の流通に依存し続けるのではなく、イランと直接取引することで、供給先を広げる道を選びました。
出光佐三はどんな人物?決断を支えた考え方
出光佐三は1885年生まれで、1911年に出光商会を創業し、1940年に出光興産を設立した実業家です。出光興産の公式プロフィールでは、戦後の石油供給をめぐる状況や、消費者に安い石油を届けるという佐三の考え方が、日章丸事件の背景として紹介されています。
当時の出光は、国際石油メジャーと比べれば規模の小さい日本の石油会社でした。相手は英国政府の後ろ盾を持つ巨大企業であり、イランとの直接取引を試みれば、石油を積んだ船の安全だけでなく、積荷の所有権や日本政府との外交関係にも問題が及ぶ可能性がありました。
それでも佐三は、イラン国民の困窮や日本の石油調達の難しさを重く受け止め、直接取引を決断します。出光興産の公式説明では、取引の行き先を知っていたのは佐三や船長などごく少数に限られていたとされています。
社内外に情報を広げず、航路上の危険な場所を調べて準備を進めたことが、極秘航海を実行するための条件になりました。
この決断を「無謀な挑戦」とだけ捉えると、事件の意味を見誤ります。石油を確保する必要性、国際的な圧力、会社が負うリスク、そして取引相手であるイラン側の事情を同時に考えたうえで、佐三は既存の商流に従わない選択をしたのです。
日章丸はどのように航海した?1953年の経緯を時系列で解説
日章丸事件の経過は、取引交渉、秘密裏の出港、イランでの積み込み、日本への帰港、積荷をめぐる訴訟という順に進みました。番組のテーマである「選択」を考えるうえでは、船が出た日だけでなく、その前後に何が起きていたかを押さえることが大切です。
1952年から1953年2月:直接取引の交渉
出光興産は1952年にイラン側との交渉を進め、1953年2月14日にイラン国営石油会社(NIOC)との石油取引協定に調印しました。J-STAGEの研究論文によると、協定は9年間を有効期間とし、最初の18か月に一定量の石油製品を積み取る計画などを含んでいました。
この契約が成立したことで、日章丸をイランへ派遣するための商業上の土台が整います。しかし、契約ができたからといって航海の安全が保証されたわけではありません。
英国側がイラン石油の輸出を妨げている状況で、船を向かわせること自体が大きな賭けでした。
1953年3月23日:日章丸が神戸港を出港
出光興産の公式説明によると、日章丸は1953年3月23日に神戸港を極秘裏に出港しました。行き先を知っていたのは出光佐三と船長などわずかな関係者で、航路上の危険な地点を調べながらイランを目指しました。
この段階の選択は、計画を実行に移すかどうかです。英国側に航海の目的を知られれば、積荷の確保だけでなく船そのものの安全にも影響が及ぶ可能性がありました。
秘密を守ることは、航海の前提条件の一つだったといえます。
1953年4月:アバダンで石油を積み込む
J-STAGEの研究論文では、日章丸は翌月にイランへ向かい、アバダン港で石油を積み込んだあと、4月15日に出港したと説明されています。出光タンカーの沿革でも、第二世日章丸が1953年にイランから石油を積み取ったことが記録されています。
積み込みを終えた後も、目的は達成されていません。石油を日本へ運び、国内で受け入れられて初めて直接輸入は実現します。
英国海軍による事実上の海上封鎖を避けながら帰港することが、最後の大きな課題でした。
1953年5月9日:日章丸が川崎港に帰港
外務省外交史料館の年表には、1953年5月9日、英国によるイラン石油独占の動きをかいくぐり、イランから石油を積んだ日章丸が川崎港に入港したと記されています。日章丸の帰港によって、イランからの直接輸入は現実のものとなりました。
この成功は、出光一社の商取引だけにとどまりません。資源を持たない日本が、国際石油メジャーを介さず産油国と直接取引する可能性を示した出来事として受け止められました。
日章丸事件の裁判で何が争われた?積荷の所有権と結末
日章丸が石油を日本へ運んだあと、英国系のアングロ・イラニアン石油会社は、積荷の所有権を主張して出光側に法的措置を取りました。争点は、イランから積み出された石油を日本国内へ持ち込むことが認められるか、またその石油の所有権を誰が持つのかという問題です。
鈴木商店記念館の出光佐三特集は、アングロ・イラニアン社が東京地裁に提訴したものの、最終的に同社が提訴を取り下げ、出光側の勝利となったと説明しています。一方、日本エネルギー経済研究所の資料は、日章丸事件の裁判は出光側の勝訴で結着したと整理しています。
つまり、事件は海上封鎖を突破した時点で終わったわけではありません。日本の港に到着した石油を国内で扱えるかどうかが法廷でも争われ、出光側が勝利したことによって、直接輸入の正当性をめぐる対立に一つの決着がつきました。
なお、法的な経過を細かく確認するときは、仮処分の申請や控訴など、手続きごとに分けて見る必要があります。番組のあらすじだけで裁判のすべてを把握できるとは限らないため、ここでは確認できる範囲で「積荷の所有権をめぐって提訴され、出光側の勝訴で決着した」という大枠を押さえておきます。
日章丸事件の本当の意味は?日本のエネルギー政策に残した影響
日章丸事件の意義は、英国の海上封鎖をかわして石油を運んだという劇的な航海だけではありません。石炭から石油へとエネルギー構造が変わりつつあった日本にとって、安定した石油供給先をどう確保するかという課題を、企業の行動によって具体化した点にあります。
J-STAGEの研究論文は、出光とイランの取引を、1950年代の日本とイランのエネルギー外交の一部として分析しています。出光の直接取引は、イラン側にとっては国有化した石油の販売先を探す試みであり、日本側にとってはメジャー以外の供給ルートを確保する試みでした。
ただし、日章丸事件の成功によって、出光とイランの長期的な協定がすべて予定どおりに進んだわけではありません。J-STAGEの論文によると、モサッデグ政権が転覆した後、イラン側の政策は変化し、値引き条件などをめぐって協定の履行が難しくなっていきます。
1950年代半ば以降、出光とイランの取引は当初の構想どおりには続きませんでした。
この点も、事件を考えるうえで重要です。一度の航海で国際石油市場の構造を変えたわけではなく、国際政治の変化によって直接取引の条件は揺れ動きました。
それでも、資源の調達先を増やすという課題を日本社会に強く意識させた点で、日章丸事件は戦後のエネルギー史に残る出来事になりました。
既存の「日章丸事件」関連記事との違い
日章丸事件は、別の番組「アナザーストーリーズ」でも取り上げられています。事件の全体像やホルムズ海峡へ向かった背景をさらに確認したい場合は、アナザーストーリーズ「日章丸事件」と1953年のイラン石油輸入も参考になります。
今回の「英雄たちの選択」は、事件の概要だけでなく、出光佐三がなぜ危険を承知で直接取引を選んだのか、英国との対立や裁判のリスクをどう引き受けたのかという判断の過程に注目したい内容です。航海の成功だけでなく、その後の法廷闘争やエネルギー政策への影響まで追うことで、事件の意味がより立体的に見えてきます。
参考にした情報
- 国際大学「橘川学長がNHK『英雄たちの選択』に出演」
- J:COMテレビ番組表「英雄たちの選択 ホルムズ海峡波高し!実録『日章丸事件』」
- 出光興産公式「創業者 出光佐三」
- J-STAGE「出光石油協定に見る1950年代のイランと日本のエネルギー外交」
- 外務省外交史料館報「日本とペルシャ・イラン」
- 鈴木商店記念館「出光佐三」
- 日本エネルギー経済研究所「戦後日本の対アラブ外交史」
よくある質問
日章丸事件はいつ起きましたか?
1953年に起きました。日章丸は同年3月23日に神戸港を出港し、5月9日に川崎港へ帰港しました。
日章丸はどこの国から石油を運びましたか?
イランです。出光興産はイラン国営石油会社との協定に基づき、アバダン港で石油を積み込みました。
日章丸事件の裁判はどちらが勝ちましたか?
鈴木商店記念館と日本エネルギー経済研究所の資料では、出光側の勝利で決着したと説明されています。
まとめ
「英雄たちの選択 ホルムズ海峡波高し!実録『日章丸事件』」では、出光佐三が1953年に日章丸をイランへ送り、英国の海上封鎖を避けて石油を日本へ運んだ決断が取り上げられます。日章丸は3月23日に神戸港を出港し、5月9日に川崎港へ帰港。
その後、積荷の所有権をめぐる訴訟でも出光側が勝利しました。
事件の核心は、危険な航海を成功させたことだけではありません。イランの石油国有化、日本の石油調達、英国と石油メジャーの利権、そして戦後のエネルギー政策が交差するなかで、出光佐三が既存の枠組みに従わず直接取引を選んだことにあります。
11月4日の放送では、日章丸の航海とその後の展開を通じて、資源を持たない国がエネルギーをどう確保するのかという問いにも注目したいところです。

