ブラタモリ十勝の広大な畑の始まりは「わずか30人」?晩成社と開拓の原点を予習|10/10 19:30
10月10日(土)の「ブラタモリ」北海道・十勝回では、果てしなく広がる畑の始まりについて「わずか30人の挑戦だった?」という予告が出ています。今の十勝のスケールを思うと、「その30人は誰なのか」が気になるところです。
放送前の公的資料をたどると、帯広・十勝の民間開拓の原点として繰り返し登場するのが晩成社です。帯広市史や十勝総合振興局の資料では、1883年に依田勉三ら晩成社の一行が入植した人数を「27人」と記録しており、番組予告の「30人」はこの集団を指している可能性が高いと考えられます。
ブラタモリ十勝回の放送日時と「30人」の予告
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 放送日時 | 2026年10月10日(土)19:30〜20:07 |
| 放送局 | NHK総合 |
| 番組 | ブラタモリ |
| 出演 | タモリ、佐藤茉那アナウンサー |
| 語り | あいみょん |
| 今回の舞台 | 北海道・十勝 |
Gガイドに掲載された番組内容では、十勝の広大な畑について「その始まりはわずか30人の挑戦だった?」と紹介されています。さらに、大規模農業を夢見て移住した人々を襲った苦難や、生活を支えた知恵にも迫るとされています。
今回全体のテーマや放送情報をまとめて確認したい方は、ブラタモリ北海道・十勝回のまとめも参考になります。
「わずか30人」は晩成社の27人を指す?
帯広市史によると、1883年4月、依田勉三ら13戸27人の晩成社の人々が横浜港を出帆し、5月にオベリベリ、現在の帯広周辺へたどり着きました。十勝総合振興局の「あらまし」も、晩成社移民団27人が入植し、民間人による十勝の開拓が始まったと説明しています。
そのため、番組予告にある「30人」は、歴史資料の人数を厳密に示した数字というより、約30人規模の小さな開拓団から始まったことを印象的に伝える表現とみるのが自然です。ただし、番組の中で誰を「30人」と数えるのかは放送前には確認できていません。
放送を見る際は、予告の数字と、公的史料に残る「13戸27人」がどう説明されるかに注目すると面白そうです。
晩成社とは何だったのか
晩成社は、依田勉三らが静岡県で組織した民間の開拓団体です。帯広市史では、勉三が十勝沿岸部を視察したのち、1882年に一族の賛成を得て開拓団「晩成社」を組織した経緯が記されています。
翌1883年、勉三らは下帯広村に入植しました。北海道の赤れんが庁舎展示ガイドも、晩成社を「十勝地方内陸部開拓のさきがけ」と位置づけています。
ここで大切なのは、十勝の土地がそれ以前に誰も暮らしていない「空白の原野」だったわけではないことです。帯広市史には、入植地周辺にはアイヌの人々が暮らしており、晩成社の入植によって伝統的な狩猟・漁労・採集圏を失うことにつながった側面も記されています。
開拓は最初から成功したわけではなかった
今の十勝の広い畑を見ると、開拓団が順調に土地を農地へ変えていったように感じますが、帯広市史が伝える初期の状況はかなり厳しいものでした。本州とは異なる寒冷な気候や生活環境に直面し、入植1年目から離脱する人が出たとされています。
十勝総合振興局の「開拓の黎明期」では、当時の開墾は貧弱な農機具しかない中で、人力と馬の力に頼る過酷な作業だったと説明しています。現在の大型機械で整然と耕される畑とは、まったく違う出発点でした。
赤れんが庁舎の展示ガイドにも、晩成社の一行が開墾の苦労に加え、流行病やいなごの大群などの災厄と戦ったことが記されています。番組予告にある「数々の苦難」は、こうした史実と重なる部分が多いとみられます。
晩成社だけで現在の十勝農業が完成したわけではない
晩成社は十勝内陸部の民間開拓の先駆けですが、現在の大規模農業までを27人だけで築いたわけではありません。十勝総合振興局は、1896年以降に移民へ本格的に開放され、各地から人々が入植したことで開拓が広がったと説明しています。
帯広市史でも、十勝農業の基盤が大きく形成されたのは、明治29年ごろから北陸三県や岐阜県などからの入植が進んでからだと整理しています。最初の一歩が晩成社で、その後に多くの移住者が加わって農地と地域社会が拡大していった流れです。
番組予告には「福井の人たちとの意外なつながり」も登場します。この北陸からの移住との関係を詳しく見たい方は、ブラタモリ十勝と福井の意外なつながりもあわせて確認できます。
広大な畑はどうやって生まれたのか
十勝総合振興局の資料によると、初期の開拓は十勝川流域の沖積地から始まり、その後は周辺の台地にも広がっていきました。火山灰土など農業に厳しい条件を克服しながら、今日の十勝農業の基礎が築かれたとされています。
帯広市史には、川沿いの肥沃な土地でも大樹林を伐り、根株を取り除き、手作業で耕さなければならなかったことが記されています。さらに洪水の危険もあり、「広い土地があるからすぐ大農場になった」という単純な話ではありません。
その後、農地の区画化、道路などの整備、農業技術の導入、機械化が重なり、現在の大規模な畑作地帯へつながっていきます。今の景色は、最初の小さな入植団だけでなく、その後の世代の積み重ねの結果です。
十勝が現在どれほど大きな農業地域になっているかは、ブラタモリ十勝はなぜ農業王国なのかで小麦・小豆・酪農の数字から確認できます。
依田勉三はなぜ十勝開拓の象徴になったのか
依田勉三は晩成社の中心人物として、十勝の開拓史で広く知られています。帯広市の中島公園には銅像があり、帯広開拓の礎を築いた人物として紹介されています。
ただし、歴史を一人の英雄の物語だけにまとめると、実際の開拓の複雑さが見えにくくなります。晩成社の仲間、後続の移住者、地域のアイヌの人々、行政や農業技術者など、多くの人々が異なる立場で十勝の歴史に関わってきました。
ブラタモリは地形や街の痕跡から歴史を読み解く番組です。今回も「誰が最初だったか」だけでなく、失敗や試行錯誤がどう次の農業へつながったのかを見ると、現在の広大な畑の意味がより分かりやすくなるでしょう。
出演者や案内人を先に確認したい方は、ブラタモリ十勝回の出演者・案内人まとめも参考になります。
参考にした情報
- NHKワールド・プレミアム「ブラタモリ」
- Gガイド「ブラタモリ 北海道・十勝」10月10日放送情報
- 十勝総合振興局「開拓の黎明期」
- 帯広市史「第三章 開拓使・札幌県時代」
- 十勝総合振興局のあらまし
- 赤れんが庁舎 展示ガイド「晩成社の開拓」
よくある質問
ブラタモリ十勝回の「30人」とは誰ですか?
放送前のため番組内での定義は未確認ですが、帯広市や十勝総合振興局の歴史資料では、1883年に依田勉三ら晩成社13戸27人が入植したと記録されています。
晩成社は何年に十勝へ入植しましたか?
1883年、明治16年です。帯広市史では一行が4月に横浜港を出帆し、5月にオベリベリへ到着したとされています。
十勝の開拓は晩成社だけで進んだのですか?
いいえ。晩成社は先駆けですが、その後は北海道内外から多くの移住者が入り、行政の整備や農業技術の導入も重なって現在の農業地帯へ発展しました。
なぜ番組予告は「30人」、公的資料は「27人」なのですか?
予告の30人は約30人規模という分かりやすい表現である可能性があります。公的史料では晩成社の1883年入植者を13戸27人と記録しており、番組での具体的な数え方は放送内容で確認する必要があります。
まとめ
「ブラタモリ」十勝回の予告にある「わずか30人の挑戦」は、公的資料に残る1883年の晩成社入植と重なるテーマです。帯広市史と十勝総合振興局の資料では、依田勉三ら13戸27人がオベリベリへ入り、十勝内陸部の民間開拓の先駆けになったと記されています。
ただし、現在の広大な畑は27人だけで完成したものではありません。初期の失敗と苦難、その後の移住者、農地整備、農業技術、機械化が長い時間をかけて積み重なり、今の「農業王国・十勝」へつながっています。

